大判例

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大阪高等裁判所 昭和52年(人ナ)3号 判決 1977年6月29日

請求者

甲野花子

(仮名)

右代理人

花垣厚美

外二名

被拘束者

甲野一郎

(仮名)

右代理人

難波雄太郎

拘束者

甲野太郎

(仮名)

拘束者

乙山英男

(仮名)

右両名代理人

石岡敏夫

主文

被拘束者甲野一郎を釈放し、請求者に引き渡す。

本件手続費用は、拘束者らの負担とする。

事実《省略》

理由

一<証拠等>によれば、被拘束者は現在満三才五か月の意思能力のない幼児であること、被拘束者が請求者と拘束者太郎の両名の共同親権に服すべき関係にあること、及び、現在既に請求者と拘束者太郎との夫婦関係が破綻に瀕していることが、明らかである。

二拘束者らが、意思能力のない幼児である被拘束者を監護することは、当然に被拘束者に対する身体の自由の制限を伴うから、それ自体、人身保護法及び人身保護規則にいう拘束に当るものと解すべきである。

そこで、本件における拘束者らの被拘束者拘束の違法性乃至その顕著性について検討する。

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(一)  請求者が昭和五一年七月一四日に被拘束者を連れて実家に戻つたのは、かねて請求者に対する拘束者太郎の夫としての態度行動に不満をもつていたところ、同日、夫婦喧嘩の挙句、拘束者英男らの面前で殴打されて、このままでは到底正常な婚姻生活を継続して行くことはできないと考えたからである。

(二)  請求者は、同日、津守の実家に戻つたが、たまたま今後の身の振り方を相談すべき相手の実母川田ひさ(当六八才)がその実姉山田みち方に農業の手伝いに行つていたので、翌一五日、被拘束者を連れて山田方に赴いた。

山田方には、みち(当七八才)、その二男和広(当四四才、独身)、同四男精一(当三六才、独身)が居住しており、請求者のような働き盛りの年令の女手もなく、また、子供もいなかつたところから、一同から、請求者、被拘束者ともに、子、孫のように歓迎された。請求者は、津守の実家には姉夫婦が居住しており、手狭であること等をも考えて、すすめられるままに、とりあえず山田方に落着くことにした。

(三)  そして、請求者は、親族らとともに、あるいは拘束者太郎と二人だけで、今後を話し合つたが、結婚生活を正常に戻す目途はつかず、結局離婚を決意して、その旨の調停を申立てた。離婚の調停は、被拘束者の親権者をどちらにするかが決まらなかつたため、不調に終つた。なお、請求者は、右話合、調停期日には被拘束者を連れて来阪したが、山田方に被拘束者とともに居住していることは、被拘束者を連れ去られることを恐れて、拘束者らには告げなかつた。

(四)  山田みち方は、埼王県大宮市の郊外であつて宅地化の進みつつある田園のなかにあり、二反歩余りの敷地内の平家建建物で、八畳、八畳、六畳、四畳半等の各部屋、台所、風呂場、物置のほか、かなり広い土間があり、敷地内には池をめぐらす茶室や花畠等もある。山田みちは、亡夫の遺族年金や農業による収入で生活しているが、右家屋のほか、かなりの山林田畑を所有しており、経済的には恵まれている。和広は、附近に居住する兄弟と木工所を共同経営して月収二〇万円位を得ており、精一はタクシー運転手をして月収一五万円位を得ている。同居後、請求者は、山田の家の家計の切盛一切をまかされている。

(五)  請求者は、昭和五一年一〇月から昭和五二年五月初め頃までは近くのサンマルシエ・スーパーマーケツトに、パートタイマーとして、週六日間、午前九時から午後二時までの五時間勤めていたが、その後は、離婚訴訟の手続を通じて拘束者太郎が請求者及び被拘束者の所在を探知したものと考え、被拘束者を連れ去られることを警戒して、パートタイマーをやめ、山田方の農業と家事に従事するほかは、被拘束者の監護養育に専念していた。川田ひさは、請求者が山田方に赴いてのちは、常に行動をともにし、請求者不在の際は、これにかわつて被拘束者の世話をしていた。

山田方におかれていた間、被拘束者は、母親である請求者の監護のもと、同居の親族の援助もあつて、平和な生活を続け、健全に成長していた。

(六)  拘束者太郎は、当初は、請求者は冷静になれば被拘束者を連れて太郎の許に戻つて来るものと考えていた。その後、話合の結果請求者にその意思がないことが明らかとなり、何とかして被拘束者を自己の手許に連れ戻したいと思つたが、離婚の調停、訴訟の段階に至つても請求者及び被拘束者の所在を聞き出すことはできず、心当りを全部探した挙句、昭和五二年五月二〇日過ぎ頃、請求者の残した電話番号メモから大宮の山田方をつきとめた。拘束者太郎は、あるいはそこに両名が居住しているかも知れないと考えて、同月三〇日朝、普通乗用自動車で山田方に至り、裏側路上に停車した車中から様子をうかがううち、午前一〇時頃、遊びに来た近隣の幼児らとともに、被拘束者が三輪車に乗つて出て来たので、自動車をその側に寄せ、尼崎の家に帰ろうと言つて、驚いて泣き出した被拘束者をそのまま自動車に乗せて連れ去つた。

なお、拘束者太郎は、約一〇分位後に、電話で、被拘束者を連れ帰る旨、請求者に連絡した。

請求者は、即日尼崎に向い、拘束者ら方を訪れたが、拘束者太郎は、被拘束者に会わせることをも拒否した。

(七)  拘束者太郎は、肩書地にある拘束者英男所有の建物で、実父拘束者英男(当六八才)、実母乙山はな(当六三才)、妹海野留子(当二三才)、その長男治信(当五才)と同居している。右建物は三階建であり、一階には四畳半、四畳半、三畳の各部屋と炊事場、風呂場があつて、食事、入浴等の共同使用のほかは、海野母子が使用し、二階には、四畳半、三畳、四畳半の各部屋があつて、前二つを他人に賃貸し、後二つを拘束者英男夫婦が使用し、三階には、六畳、四畳半の二部屋があつて、拘束者太郎が使用している。近隣は市街地で、敷地内に庭といえるものもないが、至近距離(徒歩一分位のところ)に児童公園がある。

拘束者太郎は、阪神電鉄のバス運転手で、最初の二日間が午前五時から午後二時まで、次の二日間が午前七時から午後六時まで、その次の二日間が午後三時から午後一一時まで勤務し、そのあと一日休むという、一週間単位の勤務を繰返している。通勤に要する時間は片道二〇分位である。被拘束者に対しては、父親としての愛情をいだいており、拘束後は、在宅の時間はつとめてその世話をし、その監護養育にそれなりの努力をしている。

拘束者太郎は、三年程前に胆石の手術をしてのちは体力が弱り、刺激の強い生活は無理となつたので、生業であつた仕立業をやめたが、平静な生活をする分には特に支障はない。はなは、高血圧でめまいを感じるような状態となつたので、六か月程前に、それまでしていた長女里見幸子の食堂の手伝をやめ、医者に通つて治療しているが、日常生活に支障がある程ではなく、拘束者太郎不在の間は、被拘束者の世話をし、夜は添寝をしてやつている。海野留子は、はなにかわつて、現在、午後四時から午後九時まで、里見幸子の食堂の手伝をしている。治信は保育園に通つている。

拘束者太郎の月収は一八万円位であり、拘束者英男には、年金、間貸の賃料(月一万四〇〇〇円)、親族の衣服等の仕立代(月三万円位)収入等があり、留子も食堂の手伝いによる収入を得ているので、普通程度の生活を維持するのに困難はない。

(八)  請求者に対し、和広、精一は、被拘束者が来たら自分らの子供として面倒をみてやると、申出ており、請求者も、被拘束者と共に山田方で暮らす心算でいる。そして、さしあたりはその監護養育に専念し、幼稚園に通うようになれば、またパートタイマーとして稼働する決心をしている。以上の認定を左右するに足りる証拠はない。

三右(六)で認定したような態度で山田方から請求者の監護下にある被拘束者を連れ戻し、拘束者らの監護下においた拘束者太郎の行動は極めて不穏当であり、拘束者らの監護は、違法な拘束であるといわざるをえない。もとより、これに先立ち、家出に際して被拘束者を帯同し、親権者の一方である拘束者太郎にその所在を隠くして遠く埼玉県に至り山田方において被拘束者を排他的に自己の監護下においた請求者の措置もまた不穏当のそしりを免れないけれども、前認定の事実関係(右の措置に至つた経緯、請求者のもとにおける監護の状況等)からすれば、その故に拘束者らの行為が正当化される理由はないものといわなければならない。

ところで、右(四)、(五)、(七)、(八)で認定した各事実からすれば、請求者のもとにおける被拘束者の生活環境と、拘束者らのもとにおけるそれとの間には、子に対する愛情、経済状態、現実的な監護養育を援助する人手といつた面からみるかぎり、格別の優劣はつけがたいところである。しかし、三、四才の幼児にとつて、両親のいずれか一方の監護を受けなければならないとすれば、一般的には、実母のもとで監護養育されるのが自然であり、より幸福であるといえよう。しかも、本件の場合、請求者のもとにおける生活環境は、被拘束者が拘束者らのもとに連れ戻されることによつて違法に破壊されるまで、心身ともに被拘束者に馴染んできたものであることを考えれば、現在三才五か月の幼児である被拘束者にとつては、特段の事情のないかぎり、請求者の監護下にもどる方が、拘束者らの監護下にあるよりも幸福であることが明白であるというべきである。

拘束者らは、請求者の性格、体質、過去の行動に照らし、請求者に被拘束者の監護を委ねることはできないと主張するけれども、<証拠>によれば、請求者は、心臓弁膜症で、医師にすすめられて、被拘束者の出産直前に不妊手術を受けており、生命の危険をおかして出産した被拘束者を、かけがえのない子供として愛していること、拘束者らの心配する疾病についても、必要な治療を受けさせていることが認められるし、何よりも、前認定のように、昭和五二年五月三〇日に連れ去られるまで、被拘束者を大過なく育てて来た事実にかんがみれば、請求者に母親としての資格、育児の能力に著しい欠点があるとは思われない。そして他に、前記の点を別異に解すべき特段の事情はみあたらない。

四以上、拘束者らによる被拘束者の監護は人身保護法、人身保護規則にいわゆる拘束にあたり、かつ右拘束は違法であつてしかもそれが顕著であるというべきであるから、請求者の拘束者らに対する本件人身保護請求は理由がある。そこで、これを認容して、被拘束者甲野一郎を釈放することとし、同人が幼児であることにかんがみ、人身保護規則第三七条を適用してこれを請求者に引渡すこととし、本件手続費用の負担につき人身保護法第一七条、人身保護規則第四六条、民事訴訟法第八九条、第九三条に従い、主文のとおり判決する。

(坂井芳雄 下郡山信夫 富澤達)

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